先日、とある酒蔵を見学する機会があった。
その酒蔵は、鎌倉時代のレシピを再現していたり、現代人から見ればとても原始的で非効率で、こういっちゃ悪いがある意味不潔なやり方で酒を造っていたりして、普通の酒蔵とは一線を画すなかなか面白い酒蔵だ。
そこの日本酒は、およそ一般の日本酒のイメージからはかけ離れた味で、銘柄によっては日本酒というよりむしろ梅酒や果実酒に近い。米だけを原料にしてあの酒ができるというのは、にわかには信じがたいぐらいだ。でも、ちゃんと米だけからできている。乳酸菌やらなんやらのおかげで、あの複雑で芳醇な味わいになるのだそうだ。
こう書くと、単に奇をてらっただけの酒蔵のように聞こえるかもしれないが、決してそうではなく、一般的なベクトルとは違うけれどかなり美味しいお酒を造っている。価格もそんなに高くない。私の好みの銘柄は、上で言った果実酒みたいなやつなのだが、それは「このお酒は私が死ぬまで滅んでほしくない」と思えるぐらいに美味い。
そんな個性的な酒蔵を訪れて、私は否が応でも“酒とたばこ”の対照を連想せざるを得なくなった。
酒とたばこ、どうしてここまで差がついたのだろうか?
と。
前者は「百薬の長」、そして後者は「百害あって一利なし」
“莨”という漢字からわかるように、かつてはたばこにも良薬としてのイメージがあったはずなのに・・・
科学的な視点から見れば、酒もたばこも、体に与える悪影響の度合いにさほど変わりはなく、どちらも程度が過ぎれば人を不幸にする。私の周りだけを見れば、親戚の一人がアル中のようになって三十ぐらいで自殺してしまったことがある一方、喫煙が原因とされる病気で死んだ人はまだいない。だから、個人的にはたばこよりも酒の方が恐ろしく感じるぐらいだ。
社会的な悪影響から言えば、人の思考や行動を著しく乱すことがない分、むしろたばこの方が健全だとも言える。
まあ一言で言えばどっちもどっちで、最終的には大衆の抱くイメージの問題に集約されるのだろう。
ではなぜ、たばこだけが一方的に悪のレッテルを張られてしまったのか?
私は、すべての根源はたばこ産業の寡占化にあるとみている。
もしも、たばこ産業が、日本酒のように1000以上の独立した事業所から成り立つ産業だったなら、今のような惨憺たる状況にはなっていなかったのではないだろうかと思うのだ。これはたばこの自家製造と新規参入を掲げて活動している私が、プロパガンダで言うのではない。冷静に考察してみて、そういう結論に至っただけだ。
私が今回訪れた酒蔵のように、零細だがこだわりをもった事業所が1000社もあれば、いかにアルコールが体に悪かろうと、それをあからさまに非難することはできないし、そんな気にはそもそもならない。彼らの造る酒には、人の心が宿っているからだ。
また、日本酒も広義の見方をすれば“農産物”だから、各々の事業所のこだわりは、おのずから“米”や“水”といった自然物へ向かうことになり、人々は無意識的に「アルコール=自然からの贈り物」といったイメージを抱くことになる。そうなれば、アルコールがもたらす害悪も、もはや天災のように自然に受け入れてしかるべきものになるのではないだろうか。
一方で、日本でたばこを造ることを許された事業所はJTただ一社のみだし、世界的に見ても、たばこは、数社の超大企業による寡占が徹底されている産業だ。それらの大企業たちが造るたばこ製品には概して人の心が宿っていないし、農産物としてのありがたみも感じられない。今のたばこは、ただの工業製品と化してしまっている。
体にわるい工業製品を肺に入れる喫煙という文化が、現代の潔癖主義な大衆の偽善のはけ口として恰好の餌食になるのはわかりきったことだ。加えて、その工業製品を造るのは超大企業だから、非難して排斥しても、すこしも心は痛まない。
でも実際は、たばこだって立派な農産物で、もしも零細企業の参入が許されていたなら、造る人の息遣いや大地の恵みを感じさせる製品だって多く生まれていたはずなのだ。
産業の金額的な規模から言えば、たばこは日本酒よりも大きいのだから、今からでも、中小零細企業の新規参入を解禁することは不可能ではない。むしろ、そうすることでしか、たばこ文化が大衆の批判を躱し生き残る道はなさそうに見える。国も、たばこから税をとり続けたいのなら、そうした方策を早く考えておいたほうが良いだろう。そして何より喫煙者達は、現在の寡占的な状況に少しは危機感を持っておいたほうがいい。このままいけば、時の大衆や政権の気分次第で、たばこが絶滅する可能性すらあるのだから。