一週間禁煙してみた結果→全然辛くないことが判明。喫煙も禁煙も、もっと気軽でいいと思う。

このブログの過去記事をご覧になっていただいた方なら分かると思うが、筆者は、普通の人と比べれば異常なほどに普段からたばこに拘泥している。

とはいえ、筆者はどちらかというとライトスモーカーだ。吸う量は一日に紙巻5,6本ぐらいだし、喫煙歴もまだ2年ぐらいである。それに、歳はまだ20代半ばだから、喫煙歴40年とかの筋金入りのスモーカーおじ様たちに言わせればひよっこもいいとこだ。

そんなライトスモーカーの筆者が、何を思ったか一週間前から禁煙している。

禁煙をしてみたのに特別な理由はなくて、ホントになんとなくやってみたくなったのだが、やってみて分かった。

禁煙は全然辛くない。

と。

もっとも、喫煙歴がまだ短いこと、普段から吸う量が少ないこと、喫煙開始年齢がちょいと遅めだったこと、普段から無添加のアメスピを吸っていることなど、筆者が「禁煙は簡単」と思ったのにはそれなりに理由があるのだろう。

また、ニコチン依存の強度は人によって個人差が大きいといわれているから、たまたま筆者の体質がニコチン依存し辛いものだったからなのかもしれない。

だが、「禁煙=めっちゃつらい」と刷り込まれていた筆者としては、正直かなり拍子抜けした。

禁煙生活は今日でちょうど一週間が経過したわけだが、今のところ、これならこのまま禁煙生活を続けても全く問題はないなあ、と感じている。

「禁煙=辛い」は思い込みか?洗脳か?

世間でのたばこへのイメージがここまで悪いものになってしまったのには、「禁煙=辛い」という、中毒性への過剰な警戒感があるのではないかと思う。

当の筆者も、たばこ産業への新規参入や自家製造解禁の可能性に気づくまで、「何を好き好んであんな中毒性物質を摂取するの?国のカネ儲けのために進んで中毒になるなんて情弱過ぎw」と思っていた。

だが、今回禁煙生活をしてみて、「このレベルの中毒性なら、あんなに警戒することはないな」と、再認識することとなった。

たしかに、最初の2日間ぐらいは、寝起きや食後に「たばこ吸いてー」と思うことがあったし、コンビニの誘惑には何度か負けそうになった。

が、最初の2日間を乗り越えれば、そのあとはぜんぜん辛くない。

こんなブログをやっている筆者だから、記事を書くたびに必然的にたばこのことを思い出すことになるわけだが、その時ですら、「たばこ=吸いたい」という連想として思い出すことはあまりなかった。

今のところ一週間禁煙し続けているが、この感じなら、このまま何か月でも続けていられる、というのが現在の実感である。

筆者には、禁煙が世間で言われているように辛いものだとは全然思えなかった。

そんなわけで、筆者は半ば強引にある仮説を導き出した。

「禁煙=辛い」は、われわれにかけられた暗示なのではないか?

と。

陰謀論めいたジョークのような話だが、実際、われわれに暗示をかけて得する者は多い。

たとえば、ニコレットなどの禁煙補助剤を売る製薬会社は、「禁煙=辛い→うちの薬使えば楽だよ?」という構図で儲かる。

また、喫煙者が暗示にかかっていれば、「禁煙=辛い→なら禁煙するのをやめよう」と勝手に吸い続けるから、たばこ会社にとっても都合がいい。税を徴収する国も、喫煙者が勝手に自己暗示にかかってくれていた方がいいだろう。

だが、ニコチンの身体的な中毒性が実際にはあまりなく、酒と同等程度だとしたらどうだろう?

たばこが「吸いたい日にだけ買って吸い、そうでない時は吸わない」というように今より気軽な在り方だったら?

都合が悪い人たちはかなり多いのではないか?

つまり、「禁煙=辛い」というのは一部の者達によって意図的に誇張された説で、喫煙者は実際以上にその辛さを意識させられるがゆえに、たばこの精神的な中毒性を、自ら必要以上に高めてしまっているのではないだろうか?ということだ。

人間は、自分で思っているより精神に支配されている。

たとえば、本来なら100㎏のものを持ち上げられる体を持っていながら、精神がリミッターをかけることで80㎏で限界を感じてしまう、というようなことはざらにある。

また、本来なら能力のある子供が、「おまえは出来が悪い」と言われ続けることによって自らの能力を発揮できない、ということもよくある話だ。

同じように禁煙も、辛いというイメージが先行しすぎるがために、必要以上に辛く感じてしまっているのではないかと思うのだ。

実際に一週間禁煙をしてみた結果、筆者はそう感じた。

「休肺日」を設けてみてもいいかもしれない

われわれ若い世代の人々は、「毎日晩酌する」という習慣があまりない。

だが、筆者の親世代の人の感覚では、それは結構普通のことらしい。

そんなわけで、少しでも体をいたわる気持ちからか、「休肝日」なるものを設けようという流れがあるわけだが、たばこでも似たようなことができるのではないだろうか?

たとえば、週のうち何日かは「休肺日」を設けて、たばこを吸わないようにするとか。月のうち10日はたばこを吸わないようにするとか。

禁煙の話題になると、「吸うか全く吸わないか」という、「100か0か」の議論になりがちだが、そうではなく、「100か50か」というマイルドな禁煙論みたいなものもあっていいと思うのだ。

筆者の場合、文章を書くときやギターの練習をするときなどはどうしてもたばこがほしくなる時がある。そういうときは吸っても普段は吸わないっていうのも全然ありだと思う。今回の禁煙実験の結果から言えば、筆者にとってそれは十分に実現可能なたばこの在り方だ。

0か100かの議論は原理主義的で疲れる。

だが、0~100の間に多様な選択肢があるなら、たばこは今より気軽な嗜好品として存在し続けることができると思う。

一般的に言われるタールによるたばこの害は、当然、タールの摂取量が多いほど深刻になる。ということは、100吸っていたたばこを50に減らすだけでも、体への負担はそれなりに減る。それでいいではないか。

世の中のたばこバッシングの理由が健康被害ならば、吸う量を減らすという提案も、今一度考慮に入れてみる必要があるはずだ。

 

タバコ種子はコチラ

ソクラテスの煙草

一日一本生活、始めます。嗜好品としての新たなたばこの在り方の模索

植木鉢で栽培するタバコ

タイのたばこのパッケージが衝撃的過ぎた・・・

1件のコメント

  1. 面白い推理です。けっこう同意出来ます。
    実際依存性自体でいうと、ニコチンよりアルコールのほうがはるかに高いと思いますし、だいたい薬物系の専門書にはそう書いてあります。
    が、タバコの方が酒よりくせになりやすいのは、社会が「高依存」「やめれない」「禁煙は不可能」というイメージを作ってるからでは。タバコは酒と違って、仕事中、運転中、いつでも吸えますし、他人が吸ってると自分も吸いたくなる心理があるんで、それも大きいかと。
    著者様のように、こういうところに気がついて、休煙日等を設ける人が、もっと増えれば、タバコに対する悪いイメージも減っていくかと思えますね・・。

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