アメスピの広告の文句に「たばこは農業だ」というのがある。
アメスピはそんな風にして、人々が忘失してしまった「たばこが自然の恵みである」という概念を掘り起こし、新興ブランドながらも、着実に日本でのシェアを広げた。
ソクラテスの煙草は、タバコの種苗専門店として、人々のたばこに対するイメージをもう一段掘り下げたい。
そう、「煙草は植物だ」と。
残念ながら、日本の現行法の元では、タバコを育てることは誰でもできるが、育てたものをJT以外の者が加工して喫煙できる状態にすることは違法である。
しかし、育ててみるだけでも、やる価値は大いにある。
人々のたばこに対するイメージは生のタバコの姿を見ることでだいぶ改善されるはずなのだ。
「煙草は植物だ」というごく当たり前の認識を人々が取り戻せば、たかだか数グラムの植物の枯葉の煙、それも何百倍にも希釈された副流煙なんかにヒステリックな拒絶反応を起こすような異常な風潮は緩和されるはずだ。
ニコチンの有無を除けば、たばこの煙も、薪の煙も、大して変わらない植物の煙なのだから。
たとえば、キャンプ場のたき火の煙にヒステリックな拒絶反応を起こす人はあまりいない。
またたとえば、タールが危険だからと、子供をキャンプファイヤーに参加させない親もいないだろう。
しかしながら、野外の喫煙所から漂ってくるたばこの煙を執拗に避ける人は結構多い。これは明らかに異常だと私は思う。
考えて見れば、我々人類は、化石燃料を発見するまでずっと、日常的に植物の煙を吸い込みながら生きてきた。
囲炉裏付きの古民家の空気は、たばこの副流煙なんかよりずっとタールに汚染されていたはずだし、近代以前の厨なんて今の喫煙所より数倍煙かったはずだ。昔の家の柱や梁が真っ黒なのは、薪の煙のタールが沈着しているからだ。
それでも人類はずっと生きてきた。
われわれの体は多分、植物の煙ぐらいではどうにかならないぐらいに丈夫にできている。
もちろん、煙を嫌うか、気にしないかというのは感じ方の問題で個人の自由だから、人にとやかく言われることではない。一人でも煙を吸いたくない人がいる限り、分煙などの対処は行われるべきだ。
しかし、その嫌っている煙がいったい何の煙なのかという認識は持つべきだ。
そして「たばこの煙は植物の枯葉の煙である」という認識を持ったうえで、その煙を嫌うなら、それはそれで悪くはないだろう。
でも、その感性は、人類の歴史から見ればきわめて短い現代という潔癖な時代専用の、例外的で特殊な感性だということを自覚したほうが良い。
私個人の意見としては、そんなふうに潔癖を極めた先にあるのは、全然面白みのない世界だと思うが。
いずれにせよ、「煙草をどうするか」という命題を与えられた現在のわれわれは、一度原点に立ち返り、「煙草とはなんなのか」ということを考えてみる必要がある。
私が確かにいえることは「煙草は植物だ」ということだけだ。
タバコ種子のソクラテスの煙草