先日、とあるオーガニックバーで出会った二十歳の若者が友達を連れて東京からうちの事務所兼自宅に遊びに来た。
彼らと私は5歳ぐらいしか離れていないので、彼らを“若者”と呼ぶのはどうかとも思うが、いろいろと話をしていて、彼らの聞く音楽も彼らの使うアプリも私は全然知らなくて、かなりの隔世の感を感じたので、ここではとりあえず若者と呼ばせてもらおう(笑)
その若者とはそのバーで会ったのが初めてで、その時も二、三時間話しただけだったのだが、うちが山奥にあることを知ったら、突然「行きたいです」とか言い出したので、特に断る理由もないし、私は元来料理好きのもてなし好きなので、「じゃあ来れば?」と、とんとん拍子で話が進んでしまった。
飲みの席での話なので、ほんとに来るかは半信半疑だったが、彼らはホントにうちに来た。しかも泊まりで。
正直、タバコの種子の販売という、違法ではないが普通に考えたらかなり怪しい仕事をしている私みたいな人にホイホイと付いてくる彼らの警戒心のなさがすこし心配になったが、二十歳の行動力はすがすがしくて好きだ。
だがほんとに心配になったのはここからだ。
彼らは分業化された生活に完全に慣れ切ってしまっている。
私たちは、ひとり2000円ずつ出し合って地元の野菜やお酒を買って、それを料理して食べた。料理は一匹丸々のアジをさばいたり、桂剥きした大根でつまを作ったり、煮干しで出汁をとったり、ダッチオーブンで鶏や野菜を焼いたりと、それなりに手間のかかるものを作った。お酒は500mlのハートランドと缶ビールをそれぞれ一人一本ずつ、そして秩父の地酒を四合だから、そこそこの量があった。これに翌朝の焼き芋もついて2000円だから、都会の居酒屋で飲み食いするより相当安く上がったことになる。
この安さに、彼らはかなり驚いていたのだ。
そのことに私は驚いた。
料理をちゃんとする人や、自分で作物を作っている人からすれば、6000円ぐらいあれば3人分の十分なお酒と食材が手に入ることは普通のことだ。その食材に自分で付加価値を付ければ、その価値は倍以上にできる。
しかし、彼らはふだんそういうことをしないのだそうだ。
彼らは、手間をかけて生活をすることの豊かさを知らない。
たとえば、うちでは裏山から拾ってきた薪を燃料にしてお湯を沸かし、お茶やコーヒーを淹れるのが日課なのだが、彼らからすればそれはあり得ないほどに非現実的で原始的なことなのだ。
でも、薪割をやらせてみたら二人とも危なっかしいなりに楽しそうにやっていたし、魚をさばくときも興味深そうに横でずっと見ていたから、知ることさえできれば、そういう生活の楽しさに気づけるのだ、とは思った。
知らないことが悪いのだ。いや、正確に言えば“知れないことが”と言った方が正しいのかもしれない。
現在はいろいろなことが分業化されているから、我々はなにも考えなくてもそれなりに楽しく便利にやっていける。東京では特にその傾向があるし、そもそも東京で薪でお湯を沸かしたらそれはそれで問題だ。
でもこれは、とてももったいないことだと思う。
薪を割ることも、薪割の斧や鉈を研ぐことも、魚をさばくことも、それ自体がある種のエンターテインメント性を持った労働で結構楽しいし、労働で作った付加価値を全部自分で消費できるのは中抜きがなくて合理的だ。逆に、分業するのにはお金がかかるし、自分の作った付加価値のうちの数パーセントは資本家のものになってしまう。しかも今の分業体制はグローバル化しているから、払ったお金がそのまま海外に流出してしまうことも多々ある。
長い目で見れば、先進国の大多数の人の労働の価格が下がるのは当然の事だ。日本ではここ20年の平均給与の推移にその傾向が如実に表れているし、それを是正するのは資源の分野で何らかのブレイクスルーがないと無理だろう。しかし、利潤の源泉だった未開の地がなくなってしまった地球では、残念ながらそれは無理そうだ。
ならば、これからを生きる私や彼らのような若者が、少ない給与でそこそこ楽しくやっていくためには、お金が無くても自分の生活が充足するようなスタイルを見つけなければならない。
私の場合、それは森の中に住んで野菜やエネルギーをできるだけ自給することであり、たばこの自家製造解禁を目指して種を売っているのも、根本的なところにある思いは同じだ。
そんな話を、夜な夜な彼らに話したのだが、はたしてうまく伝わっていただろうか?
ちなみに彼らは今、ツリーハウスを作るために、月40万円ほど稼いで資金をためているそうだ。フリーターでそれだけ稼ぐのはかなり大変だろうと思うが、頑張ってほしい。
あ、あの夜はなんか上から目線でいろいろ言ってすいませんでした(笑)